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人生何回目?と言われることもあります(笑)不屈の精神で挑み続ける 河村美幸選手






#teamacl 企画第二弾は

今シーズン、韓国WKBL

サムソン生命ブルーミンクスで

プレーをされる

河村美幸選手にお話を伺いました。






河村選手のバスケットボール人生は

小学校の課外活動から

中学校で部活動に入り、

市で優勝するのもやっと

というところからのスタートでした。


当時から身長が180cm近く

あったこともあり、

ジュニアオールスターのメンバー入り。

愛知県内のさまざまな学校で

練習をするなかで

桜花学園高校進学のきっかけも生まれました。


ジュニアオールスターが終わり、

桜花学園がさまざまな中学校を

招待する大会に参加します。

このとき、河村選手が在籍する東山中学校は

試合に参加するレベルに達しておらず

安城市内の選手たちを集めたチームで

臨んだことも

記憶に残っているそうです。

全国一位のチームに行けるならば

という気持ちもあり進学、入部を決断

1年生2年生と優勝から遠ざかりますが

3年生になりインターハイ、

ウインターカップと優勝を経験します。




その後の進路を決める際には

井上眞一先生との面談も行われましたが、

進路選択は河村選手にとっては

衝撃のタイミングでした。



国体(国民体育大会)が終わり、

その後の代表合宿から帰ってくると

井上先生からの呼び出しが。

進路は約2ヶ月後のウインターカップ前に

決めればいいと言われていたはずが

食堂のテーブルで「今決めろ」との言葉。

「1回親に電話して来てもいいですか」と

一応尋ねてはみたものの

「なんでお前の人生なのに親に連絡するんだ」

との言葉で動けず。

所属チームがその場で決まったのでした。






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W.LEAGUEでは、

シャンソン化粧品シャンソンVマジックで6年

トヨタ自動車アンテロープスで3年

トヨタ紡織サンシャインラビッツで3年の

選手生活を経て

次のシーズンは、韓国WKBL

サムソン生命ブルーミンクスでプレーされます。


シャンソン時代は

若手だったということもあり

一番追い込まれ、一番走った時期だ

と振り返ります。

丁海鎰(チョン・ヘイル)ヘッドコーチが

率いた時期は、毎週土曜日の夜は

チキンを6ピース食べる日々。

そこからトヨタ自動車に移籍、

同じセンターポジションの選手も

多いなかの加入となりました。

Wリーグ制覇も経験し、

自身の活かし方も模索した期間でした。

当時の

ルーカス・モンデーロヘッドコーチとは

その後移籍するトヨタ紡織でも

同じチームで時間を共にしました。











大怪我を乗り越えて






――河村選手は学生時代、怪我の経験はありましたか?



ウインターカップ直前に肘の怪我をしたことはありましたが、膝とかの怪我の経験はなかったです。



――膝の前十字靭帯断裂を3回経験されています。1回目から振り返っていただきたいと思います。



まずはシャンソン1年目、リーグ最終戦の前の、練習での怪我でした。2014年の3月に左膝です。練習中にローポストでボールを要求していて、リードパスに飛びつこうとしてというプレーで。その後、手術は3月中にしました。



――初回のとき、気持ちの面はいかがでしたか。



当時はスタートで試合に出ていて、最終戦が控えていたので、チームに対しての思いの方が大きかったです。1年目だったし、本当にすみません、と。



――2回目はいかがでしたか。



3年目ですね。2014年の11月に復帰して2015年はプレーできたんですけど、2016年の3月、そのシーズンの最後に次は右膝を怪我しました。右サイドでバックスクリーンから中に入ったときにディフェンスにぶつかりました。このときは前十字に加えて内側の靭帯も負傷しましたね。このときは自損ではなくぶつかっての怪我でした。痛かったけどまずそのときはACLではなく骨折かなと思ったんですよ。怪我した瞬間は驚きもあってうずくまったと思うんですけど、その日の夜に、大丈夫まではいかないけど、1回目より少し歩けたんですよね。でも次の日の朝には膝が固まっていたので、もうアウトだなと思いました。



――2回目の受傷までの期間が短いと思います。ACLの場合リハビリ期間が長いので、そこについてはまたか、という思いはありませんでしたか。



それももちろん思いましたし、最初はACLのオペだけでしたけど、2回目はMCL(膝内側側副靭帯)のオペもあったので、さすがにちょっとやばいなという思いはありました。まずMCL、そしてその6週間後にACLのオペをしました。



――1回目より復帰までの期間は長くなることはありましたか。



9ヶ月、10ヶ月くらいかかりましたね。2016年の3月に怪我してオペだったので、年明けのオールジャパンで復帰へというスケジュールでした。



――3回目となると想像を絶します。



3回目は6年目の夏、8月です。5年目は怪我をしなかったんですよ!1年目、3年目、と怪我をしたので5年目は何もなくて良かったね、とトレーナーさんたちと盛り上がっていたんです(笑)。今度は代表活動のときです。合宿の練習中に膝がガクンとなったんですよ。マッチアップしていたときだったので接触したのかと思ったんですけど、ぶつかっていなくて。画像も撮ったんですけど前十字は大丈夫とのことで、アジア競技大会へ帯同しました。リハビリをしながら練習をして試合にも出て、という感じで。そして日本に帰ってきて、2日目あたりのチームの練習でしたね。レイアップのときだったと思います。左のハイポストから右レイアップに持っていったときに身体を上半身だけ捻って、右足が残っていてガクン、となった感じです。膝がゆるい感じはあって、テープも巻いていたんですけど。そのときはこれまでの2回と比べると衝撃がそこまでなかったので、「痛いな~」くらいの体感だったんですよ。次の日に静岡の近くの病院に行って画像だけ撮ろうとなったんですね。膝に水が溜まっていて、そのせいで腫れて動きにくいと思うから一旦水を抜こうかと。私のなかで、水を抜くときに半透明だったら大丈夫だけど、血が混ざってたらアウトじゃないですか。そのときに血が混じっていたので、あ、切れてる、と。改めて診てもらったら、衝撃がそこまで大きくなかったんだったら、徐々に切れたのではないかとのことでしたね。



――3回目の心境はいかがでしたか。



そのときは9月だったので、「シーズン全休だ」という方が気持ちは大きかったです。



――そこでチームのことを考えられるのはすごいことだと思います。



全休やばい、どうしよう、が最初でしたね。それに3回目ともなるとさすがに1,2回目も治ったんだから治るだろう、っていう気持ちでしたね。もちろん大変だったけど、治る怪我だから、という気持ちではいましたね。今シーズン全休だ、の衝撃の方が大きかった。



――私は学生時代に両膝経験していて、復帰にあたり恐怖感というか、怖さが残っていたかなというのを振り返って思います。本当にすごいです。



極力怪我を避けてはきていますね。可能性はできるだけ排除して。シャンソンでも復帰して最初の方は練習でも無理なパスは飛びつかなかったし、コーチも「河村はそのパスちょっと取れないから待って」と言ってくれることもありましたね。



――自分なりの付き合い方というか、コントロールしてきた部分ももちろんありますよね。



プレースタイル的にもあまり突っ込まないし・・・。



――いやいや身体張ってリバウンド取るじゃないですか!



まぁまぁまぁ(笑)。高校生の頃から比べるとプレースタイルは変わったのかなと思います。



――リハビリなどはどうでしたか。



ウエイトトレーニングとかは嫌いではないほうだし、身体の使い方の話をされるのも興味があったので、リハビリがどうこうはあまりなかったですね。







治らない怪我じゃないというのは頭にあった






――3回経験されていて、インタビュー前はどんなお話になるのかなと思ってましたが、前向きなお言葉に救われた気持ちになりました。



3回切っていることを意外と知らない方多いんですよね。桜花学園高校のときに、周りのACLをやっている選手が復帰した姿を近くで見ていたので、治らない怪我じゃない、というのは頭にありました。時間が経てば治る怪我なんだというマインドだったので、最初のときもダメージはそこまでなかったですね。



――怪我はしないに越したことはないですけど、学ぶ部分も多いですし、それをプラスに持っていける人が周囲にいてくれたらいいですよね。



3回目はシーズン全休が決まったから、シーズンに合わせたリハビリをしなくていい、と言われていて、最低限のことをやったら練習は上で見ててもいいよ、という感じもあったんです。そのときに下の子たちに色々声をかけたりするようになって「教えるの面白いな」という気付きにもなりました。コーチも面白いなという思いも芽生えましたね。



――そういうきっかけにもなりますよね。元々ご自身でメンタルは強い方だと思いますか。



なるようになるか、という感じはありますかね。怪我をした当時は分からないですけど、今はチームでも下の子たちとかに「すごいね、ポジティブだね」みたいなことは言われます。



――選手を続けていくうえで、メンタルがぶれない、というのも河村選手の強みなのだと感じました。



怒られ慣れてるというか、高校生のときからそういう土台はできていて、いい意味でいろんなことを受け流す力はついてきたかもしれないです。怒られても気にしては駄目だというのも桜花のときから言われていたし、若手のときも沢山怒られてというのも経験しているから、何があっても良くも悪くも一喜一憂はしないほうなのだと思っています。エネルギーを負の方に持っていかないので、あまりイライラもしないです。怒ったってしょうがなくない?って思うので。人生何回目?と言われることもありますけど(笑)。






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先を見据えての決断






ーそして韓国へ、河村選手の新たな挑戦となります。



最初は選手じゃなくてコーチとして行きたかったんです。将来的にコーチをやりたいから、韓国のチームにも、韓国遠征の時やチームが日本に来た時に練習を見学させてもらっていました。昨シーズンからWKBLで日本の選手がプレーするようになって、色々と話も聞いていたんです。去年の夏くらいには、韓国で日本のバスケットを教えるのも面白そうだなと思っていて、選手を引退したら、韓国でサポートスタッフとかをやれたらいいなとぼんやり思っていました。来年からやろう、というわけではなく、引退したらやろう、その前に日本でライセンスを取ろうというくらいの気持ちで。元々は選手で行く気はなかったんですよね。そこからいろんな人と話す中で、韓国でコーチをやるなら1年選手をやった方がいいという意見もあって、去年の年末くらいに1年やってみようかという気持ちにはなっていました。時期的には再来年くらいかなと思っていたんですが、実は今年の年明けくらいに膝が痛かったんですね。ずっと痛くて、痛みがある期間も長かったので、今年もう引退かもしれないということが頭をよぎったんです。オペするんだったら辞めますという気持ちも正直ありました。その後、痛みも少しマシになって検査をした結果、特に何もなかったんです!そこでまた考えて、ここからまた日本でやって、次韓国でやるのは無理だなと。自分なりに韓国のチーム状況なども調べて、行くなら今だしタイミング的にもそうかなと思い決断しました。



――韓国移籍を知ったときに、どういう思いで行かれるのかなというのはすごく気になっていました。



韓国には仲が良い選手も多いので、純粋に一緒にやってみたいという気持ちもありましたね。どのチームに行くかも分からないですけど、(お話を聞いたのはドラフト前)学生のときから知っている選手も、アンダー世代のときから知っている選手もたくさんいて、そうい

う人たちとやってみたいという思いもありました。



――みんな応援してくださっているそうですね。



トヨタ紡織の会社の人たちにも伝えました。もちろんルーカスにも。それだけしっかり考えてるんだったら、僕たちも応援するからという言葉もいただきました。



――次のシーズン、とても楽しみにしています。ありがとうございました。






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写真提供/河村美幸選手

企画・構成・編集

インタビュアー/船岡未沙希



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