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「元気に頑張る」①学生生活締めくくり前に選んだ言葉たち 淺野ケニー選手(専修大学4年)

更新日:2024年12月4日




B.LEAGUE誕生のとき、

淺野ケニー選手は中学2年生でした。




今回淺野選手にスポットライトを当てたのは

「これからプロを目指す選手」の

道標となるであろうお言葉を

残したかったからです。

バスケットボールを始めた頃からあった

B.LEAGUEという存在。

最後のインカレ前に

これまでを振り返っていただきました。


淺野選手の企画は全4回を予定しています。

初回はこれまでの

バスケットボール人生の振り返りを

より生の声をお届けすべく対談形式で。

その後の3回は淺野選手自身に、

インカレの振り返りなどを

コラムとして書いていただきます。

お楽しみに。








東京都江戸川区に生まれて






――生い立ちから語っていただきましょう。


東京都江戸川区で生まれただけ(笑)。小学生のときは水泳をやってて母方の祖父が剣道の有段者で小さい頃から剣道もやってました。2年生の時にはサッカー、4年生のときにはバドミントンも始めました。当時は好きなスポーツはあまりなくて、サッカーは寒いからあまり好きじゃなくて。でもお兄ちゃんもやってたしお父さんも好きだから続けてました。中学にあがったときに(江戸川区立二之江中学校)入りたい部活がなくて今までやったなかで楽しかったのはバドミントンだったけど部活がなくて。そのとき、仲が良かった友達がバスケ部に入るって言うからバスケ部に入部しました。ちょうど5歳年上の兄が高校でバスケを始めて、それも同じタイミングでいいかなと。中学自体は強くなくて、僕が小学校でバスケやってなかったみたいに近くにミニバスがなくて、経験者が誰もいなくてみんなゼロから始める、みたいな環境でしたね。まずバスケという存在を小学生のときに知らなかった。


――まずバスケに触れる機会がなかったということ。


そうですね。そういう子たちしかいない中学。都大会まではいきましたけど。


――中学生の時はクラブチームでも活動してましたよね。


あらすじ言っていけばいいんでしょ(笑)。


――まぁ、はい。そうです(笑)。


身長が大きくて中1の5月で178センチあって。中学の先生が東京都の審判でも活動されてる藤代透先生で、選考みたいなのに行かせてもらいました。その日と剣道初段の日が被ってて。うち、家のルールで初段までは取るって約束があったんですけど日にちが被っちゃって、じゃあバスケやるわって剣道を辞めて、バスケ1本でやることに。そのあと江戸川区選抜にも選ばれてコーチの目に入ったみたいで、クラブチームに勧誘されて入りました。本当中学1年の最後、3月頃に体験行ってから入りましたね。クラブチームのコーチが「身長高いハーフの子いるよ」って塚本さん(塚本清彦氏)に言ってたらしくて、塚本さんもその子呼んでって、ずっと呼んでくれてたとのことで。ここでは全国大会にギリギリ出られずでした。





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――そこから洛南高校への道のりを教えてください。


ジュニアオールスターで結果的に3位になって。中学2年生の3月かな?中学校の外部コーチの娘さんが洛南のトレーナーさんで、そういうご縁もあったんですよね。洛南の先生があの子ほしい、みたいに言ってくれてたことも聞いて。色々迷ったけど縁があるから、そっちの方がいいなと思って決めました。


――洛南高校という存在は知ってましたか。


まず東京の中学校だから関西の学校は知らなかったし、バスケを昔からやってたわけじゃないから、もちろん行く前に調べたけどそれまでは知らなかったですね。


――なるほど。そうなると、将来洛南にいきたい、強豪チームに行きたいという中学生ではなかったうえで、入ってみてまずの感想は。


入学した時は本当に帰りたいなと思ってましたね。練習がきつすぎるわけではないけど強度が違いすぎると思って。全部自分のとこでやられちゃうし、でもずっとAチームだしっていう。


――洛南はAチームとBチームに分かれての練習ですか?


コートの半面でAとB分かれて練習、みたいな感じ。違う時間、とかじゃなくて一緒に試合もするし。まったく違うところで練習とかではないですね。


――高校生活はどうでしたか。


高校ならではのルールとかがしんどくて、スポーツクラスの人には挨拶しないといけない、みたいなのもあって。やっばり洛南は関西の人が多いので東京出身っていうのもなんだか。でかくて目立つのもあったけどちょっとしたことで言われたこともあったかなぁと。


――学校生活、関西生活に慣れるのも大変でしたね。試合に出るようになったのはいつ頃ですか。


高校1年の夏に帰省して元気出て(笑)。頑張れるようになってそこから良くなって、高1の秋から冬くらいにかけて練習でもやれるようになってきて試合にも出してもらえるようにっていう感じでした。最後の年はウインターカップ3位。コロナでインターハイがなかったときの年だから。インターハイ中止世代は僕らだけですからね。


――3年間で1番の思い出を教えてください。


なんだろう。なんだろうなぁ。


――バスケ関係なくても。あっても。


やらかしとかじゃなくて(笑)。普通に楽しかったこと・・・。


――やらかしでも大丈夫ではあるけど・・・(笑)。


やらかしだったら(笑)。2年生のときにアメリカ遠征があって、係がいろいろあるなかで僕はぜんぜん違う係だったんですよ。敦也が(小川敦也選手/宇都宮ブレックス)ボール係の子に寮で空港までボール持ってきてって託されてて、それを僕も一応見てたんですけど。それでボールを持っていくのを忘れるという・・・。


―― ・・・。


ボールなしでアメリカに(笑)。敦也はなにもしないから(笑)。僕が吉田先生(吉田裕司コーチ)に電話して「すみません。ボール忘れちゃって間に合わないんですけど」みたいな。そしたら意外に怒られなくて。先生は電話で「買ってくれたらいいよ」って言ってたらしいんだけど電話であまり聞こえなくて「借りてくれたらいいよ」だと思ってて。先生的には買ってくれたらいいよだったらしい(笑)。いや~その時の焦りはまじで忘れられない!終わった~!やばい!みたいな(笑)。


―― (笑)ボールはないままアメリカへ。


現地で借りてくれました(笑)。








大学進学とともに決めた覚悟






大学進学の際に行くって決めました。高3の6月に進路決めた時に、プロに行こうと。


――B.LEAGUEの存在を知ったのはいつですか。


中2かなぁ。たしか。開幕戦がテレビでやってて、その日クラブチームの練習が休みになって、帰って観るようにって言われたのを覚えてる。そういうのができたっていうのは聞いてたけど、リーグができる凄さというのは正直全然分かっていなかった。


――バスケットボールのプロリーグができたんだっていうのがぼんやりある状態?


そう。あんまり正直分かんなくて。


――近い存在に感じたタイミングはいつ頃ですか。


それは、洛南のとき。洛南ってたまにTOをやったりするし、ハンナリーズ(京都ハンナリーズ)とも仲が良くて試合を観てすごいなぁと。その時マブンガ選手がいて(ジュリアン・マブンガ選手)すごいなぁ、めっちゃうまいなぁと思って。


――特別指定選手の経験を振り返ってどうでしょう。


2年生で京都、3年生で三遠(三遠ネオフェニックス)に。行く前は個人賞も大学でたくさんもらって、フィジカルがなくても自分のやり方だったらやれるんじゃないか、と正直思ってて。コンタクトがすべてではないというか。もちろん身体守るためには必要だけど、それがすべてではないみたいな感じで思ってて。でも京都行ったときに最終的に試合に出してもらえなくて。そもそもある程度のコンタクト、フィジカルの水準がないと、コートに立つというところまでいけないなというのはすごい感じた。やっぱ怪我されるのも怖かったと思うし、僕自身もあのまま出てたら危なかっただろうな、というのは今になって思います。


――大学時代に個人的にすごく頑張ったことってありますか。ウエイト、シュート練習、とか。


・・・ないかも(笑)。


――食生活気をつけました、とか。


あぁ~食は確かに京都行ってから意識が変わったかも。やっぱ体重増やさないといけない、みたいなのはあって、1日4食食べてて、体重増やさないといけないっていうのは京都行ってから意識していますね。・・・でもめっちゃ練習した、とかウエイト頑張ったとかはないかも。


――大学とB.LEAGUEって本当にたくさん違いがあるわけで。


それは確かに。行ってみたから分かること、みんなが知っているわけではないことを、自分の経験だからそこでこうだった、みたいなことはいろんなときに考えるようにはなったかな、と。







大学で続ける意味を問い続けた






――大学4年間はどうでしたか。


楽しかったと思う。


――ずっと主力で頑張ってきて。


1年生のときは、近畿の高校から関東の大学行くっていうので「関東行く人はすごい」みたいなものがあって。関東はすごいレベル高いって聞いていたなかで、正直中学から高校へ行ったときほどのインパクトはなかった。洛南がきっちりしていたバスケだったっていうのもあると思うんですけど。能力がすごい人も多かったし今考えたら1年生の時の4年生は本当に能力が高かったと思うけど。中学から高校へいったときは本当に何から何まで違いすぎたから、大学1年生のときは自分はなんで出られないんだろうという気持ちも正直ありましたね。


――4年生のときはおそらく他の選択肢もありましたよね。


今思えばめっちゃ悩んだわけではないかも・・・。迷ったというか、大学にいる意味ってなんだろうということはすごい思って。ひーさーさん(山内盛久選手/三遠ネオフェニックス)がめっちゃ良くしてくれてて、いろんなところ連れて行ってもらったりご飯行ったりして。ひーさーさんは専門学校から入ってプレーしてる選手で、就職した後にバスケやりたいっていう経緯で頑張っていろんなところから這い上がってっていう選手で、ざっくり言うと。そういう人から見て、やれるんだったらB.LEAGUEに行くべきだと思う、みたいな。ひーさーさんから見て僕はB.LEAGUEに残ってもいいんじゃないかと思ってくれていたらしくて、そういう話もしましたね。大学であと1年なにやるの?って。ポジションも違うし、外国籍が2人いる強度でバスケットできないし、練習の緊張感も違うしって。もちろん言ってくれることは正しいし自分を評価してくれたのも分かったから、大学でバスケ続ける意味ってなんだろうと改めて考えて。


――その状態から、専修大学で最後までやり切ろうと思った一番の決め手はなんでしょう。


・・・。うーーーん。難しいけど、三遠のスキルコーチの大村将基さんが言ってたことが印象に残ってて。「富樫勇樹選手(千葉ジェッツ)は本当にすごい。チームを勝たせる力が彼にはある。ケニーも大学で、三遠とかいろんなところで学んだことを還元して大学を勝たせることができたら選手としての価値があがると思うよ」と言われて。たしかに、と。学んだことを残り1年の学生のバスケでチームに共有して成績を残せたらそれは価値があることだと思ったのが、残り1年頑張ろうと思うきっかけにもなったかな。


――もうすぐインカレが始まりますけど、その決断は良かったなぁと思いますか。


結果的にはめっちゃ良かった。最後の1年は本当トラブル続きだったけど、ここまでのトラブルはプロでは起きないような気もするし。選手が辞めるとか、怪我人が増えたとか。色々あったけどそれを学生主体で、自分たちを中心にしてそういうことを乗り越えないといけないということはプロだったらないと思うから、それを大学生のうちに経験できたのは良かったと思うし。それに今後の選択肢が増えたっていうことも良かったと思う。


――インカレという大会を振り返ってみるとどうでしょう。


1年生のときは試合に出してもらって最後スティーブ選手(スティーブ・クベマ・ジョセフ選手/東京八王子ビートレインズ)が怪我してプレータイムがもらえて、さっき大学バスケのインパクトがそこまでなかったとは言ったけどやっとちゃんと20分くらい出られて、結構良くて。でも最後の最後で筑波大学に逆転されて負けて4位になったけどメダルももらえずにっていうのは、4年生にも申し訳ないし、わ~・・・っていうのはかなり覚えてて。2年生のときはシーズン通して負けてなかった日本大学に最後2点差で負けちゃって、同点になれるチャンスがあるフリースロー・・・。勝てるチャンスは最後まであったからそれを取れなかったのがまた4年生に申し訳ないというのがすごいあって。去年は・・・。もうなんか。去年は、まぁそうだなあんまりないな(笑)。スティーブが終わっちゃうのかっていうのが大きかったかな。


――お話聞いていると主体的に動いた4年間でしたね。いよいよ最後、ということにもなります。


引退が近いのかなぁというのは思いますね。勝つにしても負けにしても引退は見えてるから。


――どういう結果を見据えていますか、今。


とりあえずはベスト4に入って群馬に行くというのが1番。(男子は最終週のみ群馬県オープンハウスアリーナ太田で開催)そうですね。みんなで最後までバスケするっていうのが。まず1番最初の目標だと思うんで。勝てたらなと思いますね。


――個人の数字としてはどうですか。


いや~個人の数字は今シーズン本当に考えていなくて。リーグ戦では全試合、長い時間試合に出られたから(22GAME/768:49MIN)怪我なくインカレは全部出たいなと。怪我みたいな終わり方はしたくないから。元気にバスケをすることが目標です。


――素敵な締めのお言葉をありがとうございました。






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写真提供/淺野ケニー選手

企画・構成・編集・写真

インタビュアー/船岡未沙希

 
 
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